れもねーど

”lemon”=「ただの欠陥品」を、”lemon-ed”=「価値あるもの」に変えていくブログ

コミュ障とはなんぞや?

 

 

どうも、yusukeです

 

 

今回からしばらく「コミュ障」という現代の病について書いていきます。

第一回は「そもそもコミュ障ってなんだ?」という認識を共有していきたいと思います。

 

 

 

「コミュ障」とは

 

あなたは、コミュ障という言葉を聞いたことはありますか?

 

最近使われ始めた言葉です。元は、「コミュニケーション障害」で、その略語が「コミュ障」ということになります。

 

「コミュニケーション障害」は確かな障害といえるでしょう。

後天的に心理的なショックからなることもありますが、先天的な脳の疾患などにより起こることもある一言では語れない障害です。

 

コミュニケーション障害の原因として主に挙げられる事柄としては聴覚器官や発声器官の不十分といった身体的障害と、精神障害発達障害などといった心の部門に属する問題が存在する。

Wikipediaより

 

症状としては、言葉からイメージできるように「うまく意思疎通をとれない」「他人と十分なコミュニケーションをとれない」といったもの。

 

これに関しては、医師などの診断が解決につながることも多いでしょう。

 

 

 

 

でも実際は・・・

 

しかし、最近使われている「コミュ障」はぶっちゃけニュアンスがだいぶ違います。

もっと軽い感じで使われている表現です。

 

ニコニコ大百科さんの説明が非常にわかりやすかった。

→ コミュ障とは

 

つまり

  • 人との距離感がわからない
  • 雑談が苦手
  • 大勢でわいわいやること(飲み会とか)が苦手
  • 友達の作り方がわからない
  • 遠慮していいたいことを言えない
  • 口下手

とか、そんな感じの人を「コミュ障」と呼んでいます。

 

僕も以前(具体的にいうと2年前くらいまで)はこの「コミュ障」でした。

仕事上とかで必要な会話なら最低限はこなせるけど、雑談となると突然黙り込んでしまうようなやつでしたね。

 

そういう人を、周りが「あいつコミュ障じゃねw」と言ったり、

本人が「俺コミュ障だから」みたいな感じで使う言葉が『コミュ障』ということになります。

 

あえていうなら「コミュニケーション障害もどき」でしょうか。

 

 

 

 

 

ぶっちゃけていうと

 

コミュ障の原因は練習不足以外の何者でもありません。

いっぱい、いろんな人と喋るといつの間にか改善されています。

 

喋り慣れていないから口下手になる。

 ↓

口下手だからしゃべることに苦手意識が生まれる。

 ↓

苦手だと思い込むから喋らない。

 ↓

喋らないから尚のこと口下手になる。

 

この悪循環がコミュ障を強化していきます。

どこかで抜け出して、コミュニケーションへの苦手意識を払拭しないと後々めんどうなことになります。

 

どういうことが起こるかっていうと、

  • 恋人ができにくくなる
  • 友達が中々できない
  • 新しい場所にいった時馴染めない
  • 孤独を味わう

みたいなことになりかねません。

 

多くの人にとって仲のいい、気心の知れた人たちと一緒にいることは幸せの一つだと思います。

でも、「コミュ障」のループにはまっている人は、その現実から目をそらしたいがために「そもそも俺は一人の方が好きだ」「誰かと一緒にいるなんて疲れる」と思い込もうとしがちです。(しかも割と無自覚)

 

僕もそうだったんですが、「コミュ障」マイナススパイラルにハマると本気で「自分は一人の方がいい」と思い始めますが、実際はかなり人に飢えてます。

本当は喋りたいことが沢山ある。

本当は友達が沢山欲しい。

本当は恋人と過ごしたい。

そんな強い欲求を自らの中に封じ込めようとしているから、とてもとても辛い状況です。

 

まじ、コミュ障は治した方がいいです。

 

 

 

 

諸悪の根源は

 

「コミュ障」という言葉そのものだと思います。

「コミュ障」というラベルがあるから、自分をその中に押し込めてしまい、抜け出せない闇のスパイラルに突入してしまう。

 

例えば、周りが軽い気持ちで「コミュ障かよw」といったその言葉がきっかけとなってコミュニケーションへの苦手意識が芽生えたり。

例えば、「コミュ障」という言葉を知っているから「いや、俺コミュ障だからさ」とコミュニケーションから逃げる理由にしてしまったり。

 

この言葉の罪は重いです。

 

だってコミュニケーションなんて、

  • 日本語が(というかその地で使われてる言葉が)わかって
  • 言葉が喋れて(発声できて)
  • 少しものを考える頭がある

そのくらいの条件さえ満たせていれば誰だってできるものです。

別にボルトみたいに俊足で走れと言っているわけではないし、4桁の掛け算を暗算しろといってるわけでもありません。

 

もちろん、上手い下手はあります。

でもそれは「障害」と呼ばれたり、蔑まれたりするようなことでは本来ありません。

深刻に捉えることではないはずだったんです。

 

それを「コミュ障」という言葉が苦手意識を具体化し、正当化してしまったせいで、

思い込む人が増えてしまった。

 

もしあなたが「コミュ障」だと思い込んでいるなら、それは勘違いの可能性が高いぞよ。といいたい。

そしてできるだけさっさと、治してしまってください。

 

「そんなん言われても治し方がわかれば苦労しねーよ」

 

と思うならこちらのブログを読んでみてください。

以前僕が書いていたコミュニケーションに関するブログです。

 

 

 

 

 

 

次回からは脱コミュ障のための具体的なステップをお伝えします。

読んでくれてどうもありがとう

 

 

『西の魔女が死んだ』

 

という小説を知っていますか?

 

僕はこの小説は人生の教科書の一冊だと思っています。

この本には生きる上で最高レベルで大事な事柄がたくさん詰まっている。

 

映画化もされたことあるし、結構有名な小説なんですが、

読んだことのない人のために簡単に解説をしておきます。

 

 

主人公の「まい」は感受性が強い少女。

彼女はその豊かな感受性のため、中学校での人間関係に不安を抱えていました。

だんだんと塞ぎ込みがちになる「まい」。そのうちに学校に行くこと自体を拒否するようになります。

困った母親は、しばらくの間都会から離れたところに住む祖母の家に「まい」を預けることに。

しかし、そのおばあちゃんは本物の「魔女」で・・・

 

 

と、まぁそんな話です。

この本の見所としては、西の魔女(=おばあちゃん)による「魔女修行」です。

まいは「魔女修行」を通してどんどん成長していきます。

 

少しだけ、小説の中身を抜粋しますね。

 

「精神力って、根性みたいなもの?」

(中略)

「根性という言葉は、やみくもにがんばるって感じがしますね。おばあちゃんの言う精神力っていうのは、正しい方向をきちんとキャッチするアンテナをしっかりと立てて、身体と心がそれをしっかり受け止めるっていう感じですね」

「ふうん」

まいはわかったようなわからないような変な気持ちになった。

 (「西の魔女が死んだ」p68より)

 

「おばあちゃん、悪魔って本当にいるの?」

と、おそるおそる訊いた。きっと否定してくれるものと思いながら。

でもおばあちゃんからの答えは簡単明瞭だった。

「います」

まいは一瞬息をのんだ。

おばあちゃんはまたにやりとして、

「でも、精神さえ鍛えれば大丈夫」

「どうやって鍛えるの?」

まいは畳みかけるように熱心に聞いた。

「そうね。まず、早寝早起き。食事をしっかりとり、よく運動し、規則正しい生活をする」

この返事を聞いたときのまいの気持ちを想像していただけるだろうか。

(中略)

「本当に、大丈夫。悪魔を防ぐためにも、魔女になるためにも、いちばん大切なのは意志の力。自分で決める力、自分で決めたことをやり遂げる力です。その力が強くなれば、悪魔もそう簡単にはとりつきませんよ。」

(「西の魔女が死んだ」p70より) 

 

 

ここでいう「悪魔」の存在を、僕は確かに感じたことがあります。

それは時に「鬱」という形で、また時に「詐欺」や「すれ違い」という形で僕らの前に現れます。

弱い心の隙間を埋めるように、忍び寄ってきます。そしてそれらは、僕らの積み上げてきたものを一瞬で奪い去ります。

 

僕らの周りにある卑近で矮小な問題の多くが、僕ら自身が孕む「悪魔」や周りの人間が知らず知らずのうちに招き入れてしまった「悪魔」の仕業のように思います。

 

西の魔女はそんな「悪魔」に対峙する方法を僕たちに教えてくれています。

 

  • 精神というアンテナを正しい方向に向けること
  • 規則正しい(自分にあった)生活スタイルを送ること
  • 自分で考えて、自分で決めること
  • 自分で決めたことをやり遂げること

 

これらが、僕たちにできる「悪魔」対策の基本であり、極意なのです。

 

特に三つ目の「自分で考えて、自分で決めること」っていうのは僕の人生を通しての理念の一つです。

僕が見てきたかっこいい人たち、強い人たちはみんな「自分で考えて、自分で決めて」生きていました。

 

 

 

「決断こそが、自分の証明」

 

物語の主人公は皆、何かを決断します。

 

ルフィも、ナルトも、阿良々木くんも、岡部倫太郎も、滝沢くんも

(僕の趣味丸出しですみません 笑)

みんな自らの意志で何かを貫こうとします。

 

だからかっこいいんです。

 

「決断」の上にこそ、真の自信は積み上げられていきます。

 

たとえどんな素晴らしい成功体験をしたとしても、それが誰かに決められたものなら?

それはきっと「あなたのもの」にはなってくれないでしょう。

『親に言われたから東大を受験した。教師に言われた通りに勉強したら東大に受かった。』

『上司に言われた通りに仕事をした。その結果、そのプロジェクトが成功した』

あなたは素直に喜べますか?どこかしこりが残りませんか?

 

自分で「決断」したからこそ、意味がある。

その結果だからこそ、享受する価値がある。

 

人間の軸は「決断」によって作られていきます。

 

それは間違いありません。

たとえ、その決断の結果が思うようなものでなかったとしても、それは改善すべきデータとして以外と簡単に受け入れられるものです。

「決断」した人は、成功すれば自信が積み重なり、失敗すればデータが集まるだけ。

 

だから、「自分で考えて、自分で決める」ことが人生で使える最大の魔法なんだ

 

というのが僕がこの本から学んだ「人生の攻略法」です。

 

 

 

 

僕が最初にこの本を読んだのは、小学校の頃でした。

あれからもう10年以上経ったけれど、今でも年一くらいで読み返しています。

そして読み返すたびに新しい発見がある本です。

 

僕は気に入らない本は結構すぐに売っちゃう人ですが、

この本に関しては上京してからわざわざ購入してまで手元に置いておきたかったってレベルの本です。

 

読んだことない人は是非一度読んでみてください。

最高におすすめです。

 

 

 

 

 

最後まで読んでくれてありがとう!

では

 

 

お久しぶりです!

 

こんばんは、yusukeです!

今日はひとつ宣言があります。

 

 

 

超久しぶりに

 

はてなで書いています。

7月、8月はAmebaでコミュニケーションについてのブログを書いていました。

(ちなみにそのブログはこちら

 

 

結構書いたけれど、やはり僕は「コミュニケーションを教える」側ではなく、

「ディープな価値観の共有ができる人とのコミュニケーションをとる」ことの方が楽しい人間だと気付いたので自分の価値観、世界観、知識、哲学などを発信する形式に舞い戻りました。

 

 

もちろん、読んでいる人のためになるような記事を書くよう心がけるけど、

毎記事のテーマ、つまり「誰に向けて書いているか」が異なると思います。

自分丸発信ブログなので、その辺はご了承を。ある程度自由に書きます。

 

 

タイトルの『れもねーど 』は大好きなhideさんの造語"lemon-ed"からとっています。

 

『僕という"lemon"(不良品)が、"lemon-ed"(素敵なもの)に変わりますように』

『僕の中にある"lemon"(無意味な思想や知識)が誰かにとって"lemon-ed"(意味のあるもの)になるように』

 

そんなイメージで書いていきます。

 

 

 

てなわけで宣言。

 

今日から3ヶ月毎日ブログを更新します

 

 

 

僕はかなりサボり癖のある人間です。というか短期的な努力しかできない人間です。

いろんな占いやら、自己分析やら、素質論やらを受けてみても、毎回「君は長続きしない代わりに、瞬発力はある」という診断を受けます。

中学生の時も塾の先生に、「君は三振かホームランしかしない男だな」と言われてきました。

『一撃必殺!ただし、外れたら3ターン行動不能』みたいな人間なのです。

安定性皆無、攻撃力重視型。

 

そんな僕の限界継続期間が3ヶ月です。

大学受験の時だけは3ヶ月みっちり毎日勉強しました。

 

なので今回はある種限界への挑戦、と言えます。

自身に出来る最長期間の努力を自らに強いたいと思います。

 

毎日人のためになることを書いていく、

これを3ヶ月続ければさらなる進化を望めるだろうことは間違いない。

これ読んでいる人にとっては全く関係のない話ではあるけど、

自分のために宣言させてもらいました。

 

 

 

 

 

本当は、もっと色々書きたいことがあったんですが、

うまく言葉にならなかったので後日書くことにします。

 

眠いと言いたいこともまとまりません。

 

読んでくれてありがとうございました。

ではまた明日ー! 

 

 

 

 

 

 

 

キックボクシング

 
今日はキックボクシングをしてきた。
5日ぶりである。
 
体を動かすのは楽しい。
人生において快楽というのがあるなら、それは三大欲求を満たす時と運動をしている時だと思う。
付け加えるなら、何かの芸術品に対して感動を覚える瞬間だろうか?
 
どれにしたって、身体に刺激が与えられ、それが契機となって快楽が起こる。
 
要は心とか幸せとかは、身体的な反応の集積でしかないと思うのである。
 
とか、
 
そんなことを書きたいんじゃなくて、体を動かすのは楽しいっていうことを書きたいだけの記事です。
 
 
 
今日やった内容としては、
 
・なわとび(6ラウンド=18分くらい)
・シャドー(時間わかんない)
・ストレッチ(3ラウンドくらいかなー?)
 
時間はあんまし覚えてないけどこんな感じ。
 
今週は割とずっと体調がよろしくなかったので、久しぶりのジム。
そして、それをトレーナーに伝えたところ「今日は軽くにしとこうか」ということで、こんな中身すっからかんのトレーニングと相成った。
 
最初、軽いストレッチをしてから、なわとびを飛び始める。
2ラウンドをぶっ通しで飛ぶのがワンセット。
それを3セット行う。
初めの1セットでは、ただ無心に飛ぶ。
次の1セットでは、脇に力を入れ、腕を下げないように回し続ける。
最後の1セットになると、腕が上がらなくなってきて、集中力が散漫になる。何度も引っかかる。
その度に脇以外で力が入っているところ、動きが無駄に早くなっているところを観察し、修正する。
 
6ラウンド飛び切ったら、次はシャドーである。
 
鏡の前に立ち、構える。
最初は手は下げたままで、足だけを構えの形にし、前後左右に飛び回る。
だんだんと足元が自然と動き出す。
 
次に、腕の構えを足す。
そしてまた前後左右に飛び回る。上半身と下半身が一体となるまでこれを行う。
 
全身が構えに馴染んだ時、左腕を軽く前に伸ばしてみる。決して力は入れずに、まっすぐ、前にいる人の肩に触るような気持ちで、左腕を前に伸ばす。
 
左腕を伸ばして、戻す。伸ばして、戻す。
 
だんだんと早くなる。
 
伸ばして、戻す。伸ばして、戻す。
 
十分に力が抜け、無理なく、無駄なく最速の動きに到達した時、
 
左腕の前後運動は、左のジャブへと変わる。
 
最高のジャブを打ち続ける。
最速の感覚を意識し続ける。
その感覚が腕に馴染んでくる。
 
そのリズムを全身で再現する。
 
ジャブに先立って、左足を踏み込む。
体重が、先ほどと比べ物にならないくらいに前に移動する。
拳が自然と繰り出される。
自分でも視認できないくらいの速度で、
拳は空気を撃ち抜く。
また、元の位置に、構えに戻る。
 
それをひたすら繰り返す。
 
体がジャブのリズムを覚えてきたら、今度は右ストレートを。
 
構えたまま、腰を回す。
右足が地面を蹴り、左足に重心がかかり、
腰が回転し、肩も連動して回る。
 
腰を回し続ける。
 
そのうち自然と右腕が伸びてくる。
拳を作らず、右腕を伸ばし続ける。
 
腰を回し、腕を伸ばす。
 
腰を回し、腕を伸ばす。
 
これを緊張なく行えるまで続ける。
腰を回し、腕を伸ばす動作を自然のものとすることが出来たら、
右ストレートを繰り出してみる。
 
拳を作った瞬間に、緊張がまた体を支配する。
速度が失われ、力は乗らなくなる。
 
繰り返していくうちに、伸ばした先を意識してはいけないということに気づく。
意識すべきは引く瞬間だったのだ。
 
腰を回し、腕を伸ばす。そして拳を素早く引く。
 
これこそが右ストレート。
 
拳を素早く引く。引く。引く。引く。
 
右ストレートを打つのが目的ではない。
拳を引くために、右ストレートを打っている。
すべての行動が、引く動作に集中された時、
右ストレートは最速のものとなる。
 
最速を感じきるために、ひたすらに打ち続ける。
 
……………
 
 
 
 
 
 
ということを感じながら、練習していた。
 
これは、トレーニング中に感じていたことを言語化してみたという、文章である。
 
スポーツというのは、とても楽しいものだが、
それ以上に最高の自己認識のツールなのだ。
 
今回俺は、最高のジャブやストレートを撃つために、自己を観察し続けた。
この行為を突き詰めると、自己コントロールの極地に至れるのではないかと期待している。
 
そして自己コントロールは、コミュニケーションを改善してくれるだろう。
 
そんな期待を持って、これからもキックボクシングに勤しむつもりである
 
 
 
 
 
 
 
 

『ゴッドファーザー』

 
自己言及的なブログを書くのはやめようと思う。
 
これからは、あくまでも誰かに読んでもらうことを意識したブログを書いていきます。
 
というわけで、今日は今晩見た映画の話。
 
ゴッドファーザーである。
 
この間仲良くなった20代後半の男性がむっちゃ勧めてたので見てみた。なんでも「男らしさ」を学べる作品の一つだと。
 
見たことの無い人も多いかもしれない。
結構古い映画だから、俺らの世代では聞いたことはあっても見たことはない映画の一つだと思う。
 
まぁ簡単に言うと、マフィアの抗争を描いた作品だ。
 
しかし、実際この作品のキャラクター達からは重要な哲学を再確認することができた。勧めてくれたDさんには感謝です。
 
 
 
この作品で克明に描かれているのは、
『決断』である。
 
決断。ひとつのことを決めて、他を断つこと。
意思をはっきりと決めること。
 
ゴッドファーザー』でゴッドファーザーと呼ばれる人物は2人いる。
 
1人はファミリーの父親、ドン・コルレオーネことヴィト。
 
もう1人は、終盤で新たなボスとなる、三男のマイケルだ。
 
彼らは常に決断を迫られる。
 
誰が味方なのか、誰が敵なのか。
誰が裏切ってるのか、誰を殺せばいいのか。
 
その決断は常に命懸けである。
否、命だけじゃない。
彼らの決断はファミリー全体の存亡をも左右する。
 
しかし、これらの決断は常に孤独の中で行われる。
彼らにとって本当の意味での理解者はいない。
誰にも本音を漏らせない。
彼らの苦悩は彼らだけのものだ。
 
彼らは常に
 
「自分で考え、自分で決める」
 
シンプルにそれだけだ。
 
他の誰かに決めてもらうことなどありはしない。
常に、自分で考え、自分で決める。
 
自分だけでなくファミリーを背負ってリスクのある決断をし続けているのだ。
もう、超かっこよかった。憧れてしまう。
 
 
 
さて、この哲学を自分や周りに当てはめてみてみよう。
 
多くの人が、
「自分で考え、自分で決める」ことから逃げて、
他人任せになっているように思う。
 
周りがやっているから就活してみる。とか
 
友達が言ってたから資格取ってみる。とか
 
親が言ってるから、この大学受ける。とか
 
そんな話ばっかり聞く。
社会のことを考えろとは言わない。命をかけろとも言わない。
しかし、自分のことくらい自分で決めたらどうだろうか。
 
誤解している人がいるかもしれないが、
どんなに頭のいい人間でも、
どれほど優秀なコンピューターでも、
未来を正確に予測することなどできやしないのだ。
これは事実だ。
未来に保障などなく、意思決定に答えなどない。
だからこそ、
仮に思った未来と違う未来が来た時に納得しながら受け入れるためにも、
「自分で考え、自分で決める」ことが何よりも大事なのだと、俺は思う。
 
偉そうに書いたけど、
まだまだ自分の中にも甘えがある。
誰かに自分の選択を後押ししてほしい、とか感じてしまう。
そういうものを少しづつでも消していって、
かっこいい大人になっていきたいと思うところでしたとさ。
 
以上、『ゴッドファーザー』の雑感でした。
 
ps
非常に面白い映画だった。
でも、少しわかりにくいところのある映画だったので先にネタバレしてるブログとか探して読んでもいいと思う。
ネタバレで面白さが損なわれるタイプじゃなかったので…